そろそろ日本語学校選びで悩まれる頃ですね。そこで、ベイエリアに住まれている方のために日本語学校情報を集めてみました。

プリスクール

三育学院 幼稚部 

Springbridge

SORA Japanese School

そらプリスクール

西大和学園サンノゼ校幼稚園

にほんごひろば
(Ariel Dance Studio)

未来学園

わをん


補習校

日本語補習校

三育学院

未来学園


学習塾

ena サンノゼ校

Vantage サニーベール校

日本教育ゼミナール

Shareworld Learning Center


私も週末に少人数制で家で子供の日本語学校してみたいと思ってます。

今も2011年生まれの娘に算数、国語、体育など教えているのですが、他の友達がいながらの方がやる気でるかなーと思ってます。

あと、日本語学校まで車で送り迎えするのも面倒くさいというのと、日本語学校のボランティアが面倒くさい。。。 

なので自分でやるのが一番いいのかなーと思いました。

日曜日に教えているサッカーのように、ふざけながら授業やる感じになりそうなので、学力の伸びよりも日本語とコミュニケーション重視になるかと思います。。。

もしご興味ある方いらしたら連絡ください。

たまに先生やりたい方がいたら、やっていただいて、その日は先生やってもらった方がみんなからお金をいただく感じにするのもありかなーと。

親が当番で定期的に先生やるのは負担だと思うので、私が基本的に授業をやって、たまに、他の親御さんが授業やりたければやるような感じがいいのかなーと思ってます。

子供にとっても、相性が合う先生だけでなく、厳しい先生や、つまらない先生の授業があっても、それはそれで良い経験になるかと。

私の時代は、「学力を伸ばせる良い先生」なんてそんなにいなかったですが、愛情はあった気がします。

この先生ならサボれるとか、寝てても怒られないとか、この先生は怖いからしっかりやらないと、とか良いか悪いかわかりませんが、先生の性格見て、人間見る目も養えた?気がします。

まだ、やるかわかりませんが、もしご興味ある方らいたら連絡くださーい。

ちなみに私は、教員免許は持ってません。。。

以下の本のように「教員免許という制度も早く撤廃するべきだ。教えたいと思う人を教師にさせればいい」で頑張って見たいと思います。

バカをつくる学校
ジョン・テイラー・ガット
成甲書房
2006-09-02


引用ですが

「バカをつくる学校」

社会学者のハナ アーレントによれば、「全体主義教育の目的は、信念を吹き込むことではなく、想像力を破壊することだ」下請けのため、あるいは教師の給料を上げるため、あるいは学校の設備や運営費を増やすため、大量の知識を詰め込まれた子供達は、一体どうなるのだろう。

学校がこれまでと違った人間を生み出すようになれば、この国の経済は脅かされる。批判的な思考力を持った子供達が世に出たら、現在の経済システムは維持できなくなるだろう。

私にとって、教育の成功とは、子供が自由に試行錯誤できるような無条件の環境を築くことだ。それがなければ、彼らは他人の行動を真似するだけで、いつまでたっても経験が身につかない。また、教育の成功とは、何を学ぶべきか、何が人生にとって大切かという問題について、間違った思い込みを正すことでもある。

子供にできるだけ多くの体験をさせることが望ましいとされ、親たちはまだその嘘に気づいていない。そもそも物事には自然な順序というものがある。歩くことを覚え、それから話すことを覚えるように。学校教育は、一つの授業にしろ、常に順序がめちゃくちゃである。子供達は、こうした一貫性のかけらもない学校教育を、自らの運命として受け入れるしかないのである。

私の仕事は、生徒をクラス分けをして番号によってクラスに閉じ込め、それに順応させることだ。上のクラスは厳しいもの、下のクラスはダメなものという先入観を植え付ければ、彼らは自分の地位に満足し、クラスは軍隊のようにビシっとまとまる。教師は褒美をちらつかせ、少しでも成績をあげて、上のクラスへいけるように生徒を促す。実際、テストの点や成績は就職にはほとんど関係ないが、教師はそれが雇い主へのアピールになるとほのめかす。

無関心。私は、たとえ子供達が何かに興味を示しても、あまりそれに夢中にならないように教える。そのテクニックは実に巧妙だ。私は念入りに計画を立て、子供達を私の授業に熱中させる。彼らは興奮して立ち上がったり、私に褒められようと活発に競争したりする。しかし、一旦チャイムがなると、子供達はそれまでやっていたことを全て中止させ、直ちに次の授業の準備をさせる。彼らは電気のスイッチのように、素早く頭を切り替えなければならない。私のクラスでも、他のクラスでも、重要なことは何一つやり遂げられたことがない。生徒たちがまともにやり遂げられるのは学費の納入くらいなものだ。それどころか、子供達はチャイムを通して、やり遂げるだけの価値のある仕事はないと教えられる。そのため、何かに深く興味を持つこともない。何年間もチャイムにしたがって過ごすうち、もはや社会にはやるべき重要な仕事はないと思い込むようになる。自然の山や川が実際にはそれぞれ違うのに、地図上ではどれも同じように抽象化されているのと似ている。チャイムによって、授業は全て無意味なものになるのだ。

教室の中では教師が支配者であるという感覚を植え付けるのである。

子供達は、何事も自分で判断せず、教師の指示を待つように教えられる。彼らが何を学ぶべきか、彼らの人生に何が必要かなど、重要な判断は全て専門家が行う。専門家とは、私のような教師であったり、その背後にいる「影の雇い主」であったりする。

「優等生」とは、教師が示した考えにほとんど抵抗せず、適度な熱意をもって、それを受け入れる生徒のことである。「影の雇い主」が決めたことに従順で、他のことには興味を抱かない。一方「劣等生」とは教師の示した考えに抵抗し、何を学ぶのか、自分でそれを決めようとする生徒のことだ。教師としては、そうした生徒を野放しにしておくわけにはいかない。「優等生」は、大人になっても専門家の指示を待つ。今日の経済社会はそのような人々によって成り立っていると言っても過言ではない。もし子供達が従順であるように訓練されていなかったら、すべては破綻してしまうだろう。私たちの社会は、自分で考えることを知らず、ただ言われたことをするだけの人間によって成り立っている。それは、学校教育のもっとも重要な方針の一つである。

親から無条件に愛されるている子供は、自尊心が強く、従わせるのが難しい。しかし、こういう自信家が大勢いては、社会は維持できない。

この国は生産性ばかりを追求し、大衆の現実とはかけ離れた生活を提案している。私はそれが明らかな間違いだと思うし、別の生き方を知っている人なら、ほとんどがそう思うはずだ。自由でお金のかからない真の家族、真の友人、真の地域社会の中にある。こうした人生哲学を取り戻せば、私たちは自らの生活に満足し、世界経済の「専門家」が提供する物質的満足は必要なくなるだろう。

カリキュラムがいいとか、設備がいいとか、教師がいいとかいったことは、子供の教育の決定的要因にはならない。大切なのは、彼らが自分や自分の家族を信じ、自発性や忍耐、勇気や自信、品位や愛情といったものを学び、他者への奉仕を学ぶことである。30年前なら、それらはまだ放課後に学ぶことができた。しかし、今では、その時間のほとんどがテレビに奪われ、共働きや片方の家庭が増えたことで、一家団欒の時間も失われている。

未来は、私たちにもっと心の学習をするべきだといっている。ものにあまり金をかけない、自然な生き方をするべきだといっている。こうしたことは、いわゆる学校では教えてくれない。

アメリカでは、読み書き、計算ができてもあまり尊敬されない。この国では、話すことがもっとも重視され、言葉を口に出して初めて富や賞賛が得られる。そのため、子供達はそんな大人を真似して、話してばかりいる。

幼少期や思春期というのは、実際に仕事を体験したり、冒険したり、思いやりを知ったり、自分が本当に学びたいと思うことを見つけたりする時期だった。

今の子供達は、自分で選んだことに対してさえ、集中力が持続しない。これはチャイムによる強制的中断と関係があるのではないだろうか。

今の学校にどれだけ多くの金や人材を費やしても、病気をさらに悪化させるだけだ。
子供は、学校に監禁され、同じことを繰り返さられる子供達は、やがて思考が停止する。こうして罠にはまった子供達は、ネズミと同じく、徹底した管理が必要になる。

アメリカ経済は1960年半ばから大きく発展してきたが、労働者が実際に使える賃金は30年前よりも少ない。義務教育は人々を賢くするどころか、バカにした。

最近では百万人以上の子供達がホームスクーリング(自宅学習)を行っている。彼らの成功がもっと広がれば、全米の関心を引くだろう。一方、良い教育のためには、やはり正式な資格を持った教師と学校が必要だと考えている人も多い。正式な学校教育がいかにひどい制度であるかを、説明したい。

気づいていないかもしれないが、制度の中の「思いやり」は単なる見せかけである。家族、地域社会で養われる。薄っぺらな人間関係を維持することで生まれるのは、あなたの「友人」が実はあなたのことを少しも気にかけておらず、興味がないと言う病的な状態である。同僚にすぎず、共通の利益に関すること以外は何の期待もできない。

私たちはもう、「金で幸せが買える」などという嘘を教えるべきではない。麻薬中毒やアルコール中毒、十代の自殺、離婚といった悲劇が、貧しい人々よりも、実は裕福な人々の間に多いという事実を無視するべきではない。

適切な環境と時間があれば、それは100時間たらずで教えられるのであり、誰もが容易に独学できるものだからだ。なぜ、私たちは子供を12年間も学校に閉じ込めているのだろう。

集団教育は、子供達に大きな被害を与えるものである。何千年も前にソクラテスが予言したように、学校は教育というなの下に、私たちから金を奪い取ってきた。しかし、真の教育とは、ほとんど金がかからず、高価なおもちゃにも、道具にも頼らないものである。「自学」を生み出す実験には金は必要なく、一ドル使うのさえ難しいくらいだ。ところが、天才的なペテン師である学校は、あの手この手で、私たちから莫大な金をかすめ取ろうとする。学校の脅しに屈して、子供達を専門家に引き渡してはならない。また、教員免許という制度も早く撤廃するべきだ。学校には私のような「教育のプロ」が必要だと思われているようだが、それは違う。教えたいと思う人を教師にさせればいい。

私たちは子供たちを終わることのない工事現場へ通わせ、その有毒ガスにさらしている。しかし、子供達には外へ出て、新鮮な空気を吸う権利があるはずだ。